チャイナ通信

等身大の中国を伝える新しいブログ”チャイナ通信”。出来るだけたくさんの人に中国のよさを知ってほしい!国境の壁を越えてほしい!中国の文化や旅情報などを提供しています。

神戸南京町の歴史から見る日中関係!『中国と日本を繋ぐ人々~神戸南京町から見る華僑~』を読んで

大家好、チャイナ通信です。

突然ですが、当ブログ「チャイナ通信」は兵庫県神戸市にて運営されています。そこで今回は神戸南京町について紹介したいと思います!
ぜひ読者の皆様に、神戸南京町の魅力を知ってもらえれればうれしいです!

また当記事は『中国と日本を繋ぐ人々~神戸南京町から見る華僑~』という書籍を軸に書かれています。
この書籍は神戸にある日本三大中華街の一つ「神戸南京町」が舞台の書籍です。
南京町の発生から戦中戦後とその復興、阪神淡路大震災、そしてまた復興。
数々の荒波をともに乗り越えた日本人と中国人の姿がノンフィクションで描かれています。
ご興味がございましたらぜひご一読ください。

南京町と神戸華僑 [ 呉宏明 ]

価格:2,420円
(2020/7/10 13:34時点)
感想(0件)




神戸南京町とは

まず関西圏以外の方は神戸南京町のイメージがあまり湧かないかと思うので少しだけ基礎情報を・・・。

南京町って

南京町神戸市中央区居留地の西側、元町通の東側にある中華街です。

f:id:China-tushin:20180626214243j:plain:w500
南京町雑感 通信社撮影)

横浜中華街、長崎新地中華街と合わせて日本の”三大中華街”として有名です。実は中華街の規模は横浜の方が大きいものの、華僑の数は神戸の方が多いのが特徴です。

神戸南京町には”豚まん”という名の発祥地「老祥記」があります。店舗前には頻繁に長蛇の列が・・・。南京町を訪れた際はぜひ!
f:id:China-tushin:20180626214409p:plain:w500
老祥記|神戸・南京町の元祖豚饅頭屋より)

南京町の由来

神戸以外の中華街は”中華街”というのに神戸は”南京町”というのでしょう?
南京の由来は華僑の多くが沿岸部の江蘇省浙江省出身であったためとされているようです。しかし日清戦争の折、差別用語となって横浜・長崎は使用を控えました。
神戸でも変更案が出たようですがもうその時には差別用語とは言えぬほど時間がたっていたようです。今では横浜・長崎との差別化として”南京町”としているのだとか。

南京町と華僑たちの沿革

南京町のはじまり

神戸港が1868年1月1日に開港しました。(2017年には開港150周年を迎えイベントが大々的に行われていました。)

f:id:China-tushin:20180626214443j:plain:w500
神戸市公式サイトより)

開港後、欧米各国から神戸へやってきました。その中には中国人(当時は清国人)がいました。欧米各国は日本と友好条約を結んでおり居留地に住まいました。そののちその居留地は旧居留地・北野異人館など神戸の主な観光地となります。

f:id:China-tushin:20180626214503j:plain:w500
(風見鶏の館 探検ツアー – 神戸北野異人館街公式サイト ~神戸の異国情緒を異人館から~より)

一方で、清国人たちは友好条約を結んでいないため「雑居地」に住まざるを得ませんでした。それが南京町の始まりです。開港からおよそ半年後のことでした。 

南京町初期~第二次世界大戦

南京町ができて数年間(明治大正期)は主に日清間の貿易商の清国人が住まわっていました。そして彼らの生活を支える洋服屋、印刷屋や雑貨屋なども同時に増えていきました。客層は居留地に住まう外国人や清国人、華僑の人々で日本人はほぼ0人だったようです。

f:id:China-tushin:20180626214535j:plain:w500
(南京町の歴史|南京町大全|熱烈歓迎!南京町より)

しかし世界を巻き込んだ第二次世界大戦が起こります。
日中関係柳条湖事件から満州事変へと悪化するばかり。在日華僑へも帰国が命じられました。

戦後の南京町

時は経ち、戦争は日本の敗北で終結しました。

神戸大空襲などもあり神戸は焼野原となりましたが、三宮には「三宮自由市場」という闇市が開かれ、少しずつ元の活気を取り戻そうとしていました。
南京町も同じく再出発を図り、闇市やバーがあちこちに出てきました。
ちなみにこのバーは外国人バーで米兵や船員たちを主なお客としていたので日本人が出入り禁止のお店もあったようです。

今の南京町の様子はなくただの繁華街でした。
f:id:China-tushin:20180626214545j:plain:w500
(南京町の歴史|南京町大全|熱烈歓迎!南京町より)


あらたな南京町、発進するも・・・

70年代になると北野は観光地として整備されました。そこで「南京町を考える会」を設け、77年には「南京町商店街振興組合」が組織されました。
振興組合には日本人も多数在籍しており日中協力によって復興を盛り上げようという思いが伝わってきます。

ここから南京町は観光地としての南京町になるのです。

「あらたなチャイナタウン」と銘打って①長安門の建立②石畳・ランタンなどの外装③広場と十二支、パンダの石像の設置されました。

f:id:China-tushin:20180626214837j:plain:w500
(広場1 通信社撮影)
f:id:China-tushin:20180626215551j:plain:w500
(夜の広場 通信社撮影)
f:id:China-tushin:20180626214634j:plain:w500
(パンダの石像南京町の歴史|南京町大全|熱烈歓迎!南京町より)

しかし、好調も長くは続きません。はじめは集客もうまくいっていたけれど観光客の減少に伴い、売り上げも低下しました。
そこで彼らはハードからソフトへと舵を切ることを決めるのです。

そのかじ取りの結果、毎年旧正月に賑わう「春節祭」が生まれました。
 
f:id:China-tushin:20180626214920j:plain:w500
(第一回南京町春節祭南京町の歴史|南京町大全|熱烈歓迎!南京町より)
f:id:China-tushin:20180626215020j:plain:w500
(現在の南京町春節祭 通信社撮影)

阪神淡路大震災~現在

1995年1月17日、また災難が降りかかります。阪神淡路大震災です。
M7.3 死者6,434人を出した大地震は日本全国に大きな影響を与えました。南京町もなお被災しました。

しかし南京町の切り返しは素早く、ライフラインは途切れていたものの20日にはステーキ屋が再開、21日には振興組合の屋台が並び焼きそば、ラーメン、焼き飯などが無料でふるまわれました。

また同月31日には春節祭の予定を変更し、神戸の復興と元気づけのために屋台や紹興酒、水餃子などがふるまわれました。

f:id:China-tushin:20180626215414j:plain:w500
阪神淡路大震災時の南京町阪神・淡路大震災「1.17の記録」より)

観光客がにぎわう南京町

それ以来、南京町は神戸のランドマークの一つとして神戸を支えています。
コロナ渦中でもその様子は感じられました!
f:id:China-tushin:20200708135542j:plain
コロナ渦中の南京町

いかがでしたか?
どんな渦中にあっても「南京町」の人々は国籍関わらず協力し合いました。
管理人はこの書籍を読んで、「協力」の美しさと気概ある南京町の人々に感銘を受けました。
現在の日中関係はあまり芳しくありませんが、いま私たちはどうするべきなのでしょうか?

もう一度考えてみてはいかがでしょうか?

f:id:China-tushin:20180626215444j:plain:w500

f:id:China-tushin:20180626215629j:plain:w500

南京町と神戸華僑 [ 呉宏明 ]

価格:2,420円
(2020/7/10 13:34時点)
感想(0件)